大橋 仁、人類の明るい繁栄のため全財産をはたいて酒池肉林を撮り収める。


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——今作を見ての勝手な解釈なんですけど、前半で〝大量の精子と卵子が出会って混ざり合う光景〟として大量の男女が描かれていて。で、実はそれが大橋さんの精子と女の子の卵子がミクロの世界で繋がり合うシーンだったと。それを電子顕微鏡でのぞいてるイメージ。そこから一気に世界が開けて、マクロから現実世界に戻る。

恋人としたあとの、なにも変わらない感じとか、けだるさとか、でも平穏で〝あー、今日もいい1日だった!〟って感じの日常。だから一見、卑猥にも見えて物議を醸しそうではあるんだけど、実は大橋さんの或る平和な晴れた1日を描いてるってことなのかなって。

ありがとう。いまは予測に過ぎないんだけど、自分がもし死ぬまで何かを作っていけたとしたら、それは、なにか一言を言わんがためというか。たとえば、生涯であと10冊の写真集を出したとする。その最期に残る言葉って、たった1つなんじゃないかと思うのね。で、その一言が残ったとするでしょ? その一言は自分のどの写真集にも繋がってるし、貫かれているもの。

色んなことを表現したり、たとえ伝えられなくても、1つの言葉が残ればそれでいいのかなって。一生通じて、13冊の連作でひとつの塊みたいなさ。やっぱコンセプトみたいなものから生じる写真に自分は興味をまったく持てない。自分の写真は、自分の命、欲望から派生してるものだから。自分でも掴めないし、どうなるかサッパリ分からないんだけど。自分がしたいこと、興味があること、知りたいこと。それに純粋に従うっていう。躊躇なく入っていく。今回の写真集にしても、そういうことだったんだよね。

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——そう考えると、処女作が家族の自殺未遂じゃないですか。つまり〝死〟っていう、ものすごくマイナスなテーマから写真家人生が始まってる。だけど2作目の『いま』でガンッ!って完全なる〝明るい生〟にひっくり返った。そのまま死に向かわず、生に行けたのは大橋さんの個性ってことですかね。

オレ自身、楽しみたい派なんだよね(笑)。だから生の賑やかさが好きなんだけど、そのウラには必ず死があるっていう。そこに辿りつくまでは楽しみたいし、面白いことをしたい。1作目について言うと、誰だって若い頃は〝生きるって? 死ってなに?〟とか考えるじゃん。そういうことを考えてた21のとき、あの出来事が起こった。

自分がロマンティックに考えていた死やら絶望が、本当の死を目にすることで叩き壊された。血の中に沈んでいる親父の姿を見て『ああ、絶望ってこういう感じなのか』って思ったりして。強い生の隣りには、死が厳然と横たわってる。自分の生への見方もそこから変わった気がしたよ。

昔、フィオナ・アップルを撮影したことがあって。そのとき1冊目の本をプレゼントしたんだけど、そのあと、彼女から直々に手紙をもらってさ。「あなたの写真からは、ものすごく強いエモーションとユーモアを感じる」って。一緒に暮らしてる家族が死のうとしていた、その事実は悲しいこと。けど、そこで生き残っちゃった。そしてまた普通に暮らし始める。その、死に切れない、続いてしまう命の面白さだよね。なかなか死ねない人間の生の粘り強さっていうか。

死に切れなかったら、生きるしかないんだよ。たまにあるじゃん、ビルの20階から飛び降りたのが、なぜかうまく着地できちゃった、みたいな。そういうのって、笑っちゃうじゃん? 飛ぶまでは悲壮感タップリなのに。そういう、ちょっとした人生のお祭りというかユーモアを、フィオナは感じてくれたんだと思うんだよ。1冊目には暗い印象を持つ人がよくいるけど、オレはゲラゲラ笑いながら見て欲しいくらいでさ。自分のなかでは、性や生がほとばしった、お祭り感のある、明るくって笑える本だと思ってる。

写真集『そこにすわろうとおもう』より