彼、深瀬昌久の残像を追って


【※文中に遺骨の写真があります。気分を害する恐れがあるため、予めご了承下さい。】

8月10日、北海道北部に位置する中川郡美深町にて、深瀬昌久の納骨式をおこなった。

2012年の没後、遺骨を保管していた第三者から遺族に返還されたのが今年7月。すぐに納骨式の日程が決まった。予てより深瀬さんを故郷の大地に還してあげようと提案してきた私は、北海道行きのフライトを手配し、参加することを決めた。

数日前から関東地方を直撃するのではないかと騒がれていた台風13号。フライト日程を変更することでようやく旭川にたどり着いたが、式をおこなう当日の朝はあいにくの雨模様だった。深く霧が立ち籠め、どんよりとしていた。

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8月10日 8時30分。レンタカーで旭川を出発。

向かうのは昌久さんの故郷、美深町である。旭川からはざっと2時間の距離。比布(ぴっぷ)、和寒(わっさむ)、士別(しべつ)と辿りながら北上していく。士別では、街の至るところに設置された看板がわざわざ士別という漢字を崩して「しべつ」と表記しているのを見て、なんだか悪趣味だなぁと感じられた。

1時間半も走ると名寄市に着く。この辺りまで来るとすっかり天気は好転して、じりじりと焼きつける日差しが出てきた。私は思わずスーツを脱いだ。

名寄には陸上自衛隊の駐屯地がある。地元民から見ても僻地の名寄が維持できているのは、自衛隊の隊員が飲食店などを利用するおかげもあってのことらしい。ここでイオンに立ち寄り、Tさんは献花やワンカップを探しに、店内へと入っていった。「ここは日本最北のイオンなんだよ」と、Tさん。

思いがけず晴れたので、趣味の昆虫採集をしたくてムズムズし始めた私は、ここで捕虫網を買い求めることにした。この日の晩には帰京するため、16時過ぎには旭川まで戻る必要があった。美深町に滞在できる時間はわずか3時間足らず。それでも昌久さんが生まれた美深で昆虫を捕りたいと思った。

目当ての物は、イオン2階のキッズコーナーで見つかった。携帯に便利な伸縮式のタイプがわずかワンコインで手に入れられたことに心の中で小躍りしたが、店外に出るまでにすれ違った人々の視線が妙に突き刺さってくる。スーツに黒ネクタイの自分が捕虫網を持つ姿はきっと奇妙に見えたのだろう。

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さらに北上していく。士別を越えた辺りから天塩川が見えるようになっていた。天塩川は、日本最北端の稚内駅から旭川駅まで引かれた宗谷本線に寄り添うように流れている。川の看板が目に入った瞬間、私の脳裏には1枚の写真が過ぎった。

それは、1935年に天塩川畔でピクニックをする家族を捉えた写真。昌久さんの父、助造さんが一家を撮影したものだった。中には当時1歳の昌久さんも写っている。彼が1970年代に入って故郷に帰省し始めた頃、生家で見つけた写真だった。

1956年に日本大学芸術学部写真学科を卒業後、昌久さんは故郷を振り返ることなく東京で写真家として活躍し続けたが、私生活では妻との衝突が絶えることがなかった。そこで家出を企て、9か月ものあいだ新宿でヒッピー達と暮らした時期もあった。次第に疲弊していった彼は、1971年に故郷を懐かしみ、十数年ぶりに帰省をすることにした。以降は毎年帰省するようになり、生家を中心に自分自身のルーツをいくつも発見していった。そのきっかけを作ったのが、ほかでもない、天塩川畔に佇む家族の写真だった。

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「セピアに変色した1枚の記念写真、家族がいる、皆こっちを見ている。〈中略〉母は23才だった。とうの昔亡くなった祖母『みやの』がいる。母の妹2人がいる。〈中略〉 私の記憶はこの辺からのようだ」
深瀬昌久「明日は釣るぞ!」(『WORKSHOP 第4号』1975 年)

昌久さんが生涯、写真を通じて持ち続けた私性の眼差し。それは この天塩川を舞台に、父である助造さん(とそのカメラ)を見つめることから始まった。その天塩川を横目に、私は得も言われぬ感動に包まれていた。

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程なくして、美深まで1kmというところまでたどり着いた。深瀬昌久について調べ始めてかれこれ18年が経った今年、いよいよあの美深に足を踏み入れるのだ。

「美深っていう名前はもともとアイヌ語の〝ピウカ〟が由来でね」と、Tさんが教えてくれた。ピウカとはアイヌ語で「石の多い場所」を意味する。つまり、美深町のすぐそばを流れる天塩川の砂利川原を指すらしい。美深駅はかつて「ぴうか」と呼ばれていたが、1951年に読みを「びふか」に改めた。現地では今なお、ぴうかラーメンなどといった飲食店名などに、その名残りは確かめられる。

説明が遅れたが、Tさんは昌久さんの甥に当たる人だ。現在となっては、遺族の中で唯一、深瀬の姓を受け継ぐ。遺族の代表として今回の納骨式を取り仕切ったのもTさんだった。

私とTさんと出合いは、今から13年も前のこと。当時、私は「mixi」コミュニティのひとつとして「深瀬昌久」を作り上げた。そこで他のファンたちとよもやま話を繰り広げていたところ、Tさんからメッセージを受け取った。なんでも自分は甥の当たる者で、もう誰も叔父のことなど知らないだろうと思いながらもその名を検索したところ、このコミュニティを見つけたので、とても嬉しかったそうだ。それから私たちは、実際に会って話をするようになった。その度にTさんが「おいちゃんはね……」と、昌久さんにまつわる思い出話を聞かせてくれたものだ。

私が深瀬昌久を知ったのは大学生の頃だった。その壮絶な人生はさることながら、彼の写真はまるで私の眼を貫くような鋭さで突き刺さってきた。以来、夢中で彼のことを調べ始めたが、当時すでに高騰していた写真集はどれも手が出せなかったため、彼が作品を寄稿した雑誌を蒐集し出した。私はそのコレクションを18年間続けた。それらを1冊の本にまとめたのが、今夏赤々舎より刊行される写真集『MASAHISA FUKASE』である。

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美深町に着く頃には、もうすぐ11時を回る時間になっていた。

私たちのほかに、参列者として名寄に住む昌久さんの妹夫婦が参加する。

Tさんは朝から神主に電話をかけていたが、一向に出ないことを心配していた。現地にたどり着いて、どうやら予感は的中したようである。神社を訪問しても留守だった。誰もいない。

しばらく待つと、1台の軽自動車がやってきて、神主さんと奥さんが降りてきた。すっかり年老いた神主は自分自身で歩くのもままならない様子で、奥さんを杖にしながら歩いていた。Tさんが話しかけると、神主の奥さんは「15日の予定です」と言う。どうやら事前の会話の中で誤解が生じていたらしい。

はるばる東京からやってきた私たちは、はいそうですかと帰るわけにもいかず、なんとか説得した結果、墓まで移動することになった。町の外れまでやってくると、森のすぐそばに墓地が見えてきた。

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深瀬家は神道のため、納骨の際には神社の神官が埋葬祭をする。

なお神道において死は穢れであることから、神社は墓地を抱えない。そのため一般の墓地に墓を作り、納骨の際には墓地まで神官を連れて行く。神道の墓石には「奥都城」(おくつき)と刻まれ、墓石の天辺はピラミッド状に尖る。これは、三種の神器のひとつである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)をかたどったものだと言われている。

仏教でいうところの改名はされず、代わりに霊号がつけられる。男性であれば「大人」(うし)、女性であれば「刀自」(とじ)などの称名(たたえな)が元の名前の下につき、最後に「命」(みこと)が添えられる。だから昌久さんであれば「深瀬昌久大人命」となる。仏式の葬儀が死者の魂を極楽に送りだすことであるのに対し、神式の葬儀は死者を一家の守り神に奉ることを意味する。

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神主がお祓いをした後、納骨となった。一同が壺を墓内に収めようとしたところ、神主の奥さんが口を開いた。

「早く土に還してあげるためには、骨壺のまま入れないの。壺から出して。布の上に広げて、包んで、それからお墓に入れてあげるのよ」

墓にはすでに3つの骨壺が収められていたが、その下にはかなり古い骨の断片が見えた。つまり、かつては骨をそのまま埋葬していたということだ。先の助言に従い、3つの骨壺と今回のそれを全て布に開け、包んで収めることにした。

一番手前に収められていた壺を開くと、まるで焼かれた直後のように真っ白な骨が収まっていた。最後に亡くなったのはTさんの父であるから、かれこれ14年近く前になる。それでも壺の中にあっては土に還らない。一同はなるほどと納得しながら、Tさんが最も古い骨壺(それは高さ10センチほどのとても小さな壺であった)から骨を取り出し、次にもう一回り大きい壺(15cm程度)を開け、その中身を取り出していった。

それから、墓内の一番手前に収められていた壺を空にした。これで、納骨されていた壺は全て開けたことになる。墓誌の記載内容と埋葬された順から推測するに、初めの壺ふたつの中身は昌久さんの両親のもの、そして最後の壺は弟(Tさんの父)のものだろう。そして墓石の底に確かめられた古い骨はおそらく祖父母のものである。最後に、それまで私が抱えていた桐箱から昌久さんの骨壺を慎重に取り出した。前晩に開けた時には固く閉まっていた蓋もスルスルとたやすく開いた。壺の中身を全て出し切ると、布の上にはかなりの量の骨の山ができた。

かくして家族4人の骨が混ざり合ったのだ。かつて山形県から屯田兵として北海道に入植した昌久さんの祖父が上川支庁写真師鑑札を取得し、美深町に「半農半写」の写真館を開業したのが1908年。以来、この地に繁栄した一家の亡骸が墓の中で渾然一体となった。彼らが土に還るまでに、それほど時間はかからないだろう。

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神主の奥さんが丁寧に結んだそれを、Tさんが墓内に収めた。

西瓜、そうめん、野菜にワンカップ、ビール、煙草。神饌(しんせん)と呼ばれるお供え物を置き、神主が埋葬祭をおこなう。式が終わると、すぐお供え物を片付け始めた。北海道にはワタリガラスが実に多く生息しており、供え物を放置すると漁ることから、すぐ持ち帰るのが地元のルールだった。

「供え物は皆さんで食べ分けて下さい。煙草は1人1本ずつ吸ってもらうとかしてもらって」と神主。煙草を吸わないTさんと私は咄嗟に顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。ものの数十分で式が終わると、神主や参列者は散り散りになっていった。

私は、誰もいなくなった墓の前でもう一度、手を合わせた。

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無事に式を終え、スーツから普段着に着替えると、私はTさんに昆虫採集をしたいと告げた。

再び車を走らせると、虫を採るにはどの辺りが良いかについてTさんと話し合った。虫採りは誰かの敷地内だと都合が悪いと伝えると、それならスキー場の上にある公園が良いと提案してくれた。向かってみるとそこは良く整備された公園だった。私が虫採りをしているあいだ、Tさんは墓参りの後片づけをしてくると言って、車で町へと戻っていった。

整備された公園と言えども、ここは北海道。すぐに豊かな種類の昆虫たちが出迎えてくれた。

虫は、私たちの触覚をとてもよく刺激する作りの身体を持っている。6本の足、トゲや触角、羽など、俊敏な動きなどが、時にとても気色悪いものに感じられる。しかし虫を捕まえる、すなわち虫に触れることは、実は写真を撮ることに近いと思う。なぜなら写真は、目で見て捉える以上に、対象物に触れる感覚に近いからだ。

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捕虫網を振り回しながらトンボや蝶を追いかけて登っていくと、途中で道が二股に分かれ、右折の道は未舗装でそのまま森へと続いていた。虫を採るなら、迷わず右折である。

青カナブン、サナエトンボ、トノサマバッタ。それらを追いかけてさらに奥を進んでいくと、まだ正午だというのに、目の前の森の奥から何物かがこちらを凝視するかのような深い視線を全身に受け、思わず身震いをした。あの奥に何かが潜んでいるのか、はたまた森が私が見つめているのか。

虫採りのために1人で夜の森に入ることはこれまでも体験していたし、先月は沖縄やんばるの森にも入った。しかしそれらとは「質」の違う不気味さがこの森からは感じられた。北海道には、この国に生息する陸棲哺乳類で最大の種とされるヒグマが棲息する。ここ美深でもヒグマの目撃例はある。森に潜む生き物が神秘的であれば、それらを孕む森そのものの存在感が強く感じられてもおかしくはない。

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直感を素直に受け止め、奥まで進むことをやめて引き返した。

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道の合流地点まで戻り、残されたもう一方の道を進んでみることにした。

歩く震動で、それまで地面に同化していた幾匹ものトノサマバッタが飛び跳ねては消えていった。ヤンマは私の頭上をグルグルと旋回していた。もはや虫採りは口実に過ぎず、美深の自然と反応し合うことが楽しくて仕方なかった。

虫と戯れながら進んでいくと、急に視界が開けた。美深町の全体が見渡せる場所に出た。どうやらスキー場のてっぺんまでたどり着いたようだ。

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そこは昌久さんが撮影した場所であった。

これまで彼の写真の中で見つめてきた景色の数々が、美深を徘徊していると度々、私の前に現れた。初めて訪れる場所なのに、町の随所で幾度となくデジャヴを体験するかのようであった。それは、確かにこの目で見たことがあるのに、地名や場所は分からないという、なんだか記憶喪失にでもなったかのような、不思議な感覚であった。

すっかり晴れた美深の景色は、東京のそれよりもコントラストと彩度が高かった。その光景にやはり既視感を抱きながらも、昌久さんがこだわったカラー写真の在り方について考えていた。

彼はかつて、モノクロームとカラーの作品比率を7:3と答えたことがある。つまりカラーが圧倒的に少ないことになるが、作品としてカラー写真を好まない理由をふたつ挙げていた。まず1980年代当時はまだカラープリントの制作環境が整っておらず、自力で手がけるにはまだ手間がかかったこと。そしてラボに出すのでは逆に素直な色がそのまま出てしまうため、それはそれで気に入らないことであった。

「いわゆるいい調子にフィルム通りきれいにいけばいくほど自分のプリントとしてのくせというか、独自性というか、個性というか、天邪鬼のぼくとしての手造りの味のような質を要求した」
深瀬昌久「総天然色的街景 ポラロイド8×10フィルムを印画紙がわりにカラーの引伸し……」(『日本カメラ』1985年9月号)

しかし1983年、20×24インチの超大型ポラロイドカメラで実際に制作したことがヒントとなって、ひとつのアイデアが閃いた。それは、ポラロイドフィルムをカラーペーパーの代わりにしてプリントするという手法であった。かくして1985年、カラーポラロイド作品「総天然色的街景」は出来上がった。

その独特なコントラストと彩度は、実は美深の景色を基準にしたのではないかとつい関連づけてしまうほど、近いもののように見受けられた。事実、1971年から1989年にかけて、彼は故郷に眠る自分自身のルーツを探り続けていたのだから、1985年の作品に美深の景色が投影されていたとしてもおかしくはない……などと、もはや答えの出ない憶測をしてはひとり興奮した。

13時を回ったところで、Tさんがピックアップしに戻ってきてくれた。かつて深瀬写真館があった場所まで連れていってくれるという。それは、丘から5分もしない場所だった。

1989年に廃業となった深瀬写真館は、その跡地に別の建物が建てられることもなく、パーキングエリアに成り変わっていた。つまり、そこにはなにもなかった。なにもない分、余計に昌久さんの写真の景色が潜像となって視界に浮かんだ。

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1989年、もうすぐ壊される深瀬写真館の前で、彼は自分自身の顔をフレームの中に入れ込みながら写した。1971年から帰省するようになって18年が経っていた。その過程で彼は自分自身のルーツを探り続けていたが、1987年の父の死、続く1989年に写真館は廃業となり、ルーツそのものがこの世からなくなった。その名残惜しさから、墓の前や写真館の前でふとセルフィーを撮ったのではないか。いずれ消えゆくものと自分の接点を、写真に刻むために。それがゆくゆくは「私景」なる作品群となっていった……もしかしたら、そんな解釈をしても良いかもしれない。

「ぼくはこれからも、過ぎ去ってゆくことを止めようとして写真を写すのだろうか? すべてを止めたいと思いつつ写真するぼくの作業は、いま生きていることへの復讐劇かもしれない。そしてそれが一番好きなことでもあった」
深瀬昌久「烏2」(『カメラ毎日』1976年11月号)

「ふとしたきっかけで昨春ごろから、自分自身をフレーム・インさせることに凝っている。それは手や足だったり顔だったり街のスケッチだったりするが、すべてうつされた物事は自分自身の反映といえるから『私景』とした」
深瀬昌久「口絵ノート 私景——旅の便り」(『日本カメラ』1990年12月号)

「あそこに立っているのがニレの木」と言いながらTさんが指さした方に目を向けると、立派なハルニレの木が目に入った。

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樹齢250年以上と推定されるこのハルニレは、1905年(つまり深瀬写真館の建つ3年前)に美深町の中心に植えられたものだ。1973年、美深町教育記念保護樹木に指定された。その翌年にあたる1974年に、昌久さんはこの木の前で撮影している。夜間にストロボを焚いて1人で写した日もあれば、それこそ他でもない、幼い頃のTさんとその妹と共に写った日もあった。

「記憶の中の私は、いつも人にかこまれていた。血縁の人達、近所の友達、生家の前にあった三本のアカシヤや、国民学校の入り口のニレの巨木までが、今の私には懐かしいというか、なにか人格化されて感じられる」
深瀬昌久「家族」跋文(1991年、IPC)

ハルニレの木の奥には、かつて昌久さんが通った小学校があった。木造の校舎ははるか昔に取り壊されてしまったが、ハルニレの木はずっと残り続けた。彼が「人格化されて感じられる」と表現するように、この木を眺めればかつての記憶が蘇ったのではないだろうか。

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さて、深瀬写真館の跡地を訪れることができた今、美深でやらなければならないことは残すところ最後のひとつとなった。長らく行方が分からない状況が続いた、あのアンソニーカメラの在処を突きとめることである。

それは、昌久さんが生まれた1930年頃に深瀬写真館にやってきて以来、深瀬写真館が廃業を迎えた1989年まで、実に60年近く一家が家業の商売道具として使い続けたカメラであった。また昌久さんが1971年から1987年にかけて断続的に写真館で撮影した作品「家族」に使われたカメラでもあった。

昌久さんは写真集「家族」(1991年、IPC)の跋文で、アンソニーは美深の洋服店のショーウィンドウに飾られていると書いていたことから、そうした店舗について聞いてもらったりもしたが、とうとう見つかることはなかった。それが今回、私たちが美深を訪れるとなった途端、新たな証言が浮上したのである。

車を走らせ、事前にTさんが話をつけてくれていた現地へと向かった。建物に入るなり、それは私たちの視界に入ってきた。

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ああ、アンソニー。アンソニーは生きていた。物として残り続けていただけでなく、彼は息をしていた。

昌久さんが生まれた頃、写真館にやってきたアンソニー。昌久さんが深瀬写真館の歴史をフィルムに刻みつけるために使ったアンソニー。それが今、写真に写ったそのままの姿で、私の目の前にあった。丁寧に施された彫刻や模様は、古き時代の職人の仕事を感じさせた。

かつての深瀬写真館でそれをよく見てきたTさん曰く、とてもよく手入れされているとのこと。現役時代の方がもっと酷い状態だったと。確かにところどころ修復された跡が確かめられたし、少なくとも製造から80以上は経っているのにもかかわらず、ボディは艶々としていた。

現在の持ち主から色々な話を聞かせてもらったのち、現地を後にした。昌久さんが生まれた頃、深瀬写真館にやってきたそれは、現在も彼の残像を確かめるにはこの上ない物品であるが、「アンソニーはあそこにあるのが一番幸せかもしれないね」と、車内でTさんと話した。それがずっとこの世に在り続けたのだという事実を確かめられただけで、私たちは満足だった。

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深瀬昌久を故郷の大地に埋めることが叶っただけでなく、町の随所に彼の写真の潜像を見ることができた。そしてアンソニーの無事も確かめることができた。美深町に着いてわずか1時間足らずのあいだにトントン拍子で色んなことが進展していく状況を頭の中で整理しながら追いつくのがやっとであった。しかし、なんてことはない。それらは、私たちがやってくることをずっと待っていただけなのだ。美深は、昌久さんが還ってくることをずっと待っていた。

没後6年ものあいだ、昌久さんの遺骨はある場所に保管されていた。その事実を知った当初こそ驚いたものだ。しかし今となっては、彼がいたかっ場所にしばらくいたということなのだろうと、私は解釈している。御生前は放浪癖のあった彼だから、寄り道、道草の類は嫌いじゃないはずである。その放浪もひとつの区切りがついた。だから遺族の元に戻り、美深に戻ってきた。そう考えると、肩の力が少しだけ抜けた気がした。

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納骨の前夜、旭川のホテルでTさんから骨壺を預かった。

翌日、お墓に入ることを考えれば、その晩は昌久さんがこの世にいる最後の晩であった。私はTさんに、最後の晩は私が添い寝させてもらうことをお願いした。Tさんは、俺はもうこの1ヵ月一緒にいたから最後はトモ君が一緒にいてあげてくれと言ってくれた。

私は部屋まで持ち帰ると、手を合わせたのち、桐の箱に収められた壺を出し、その蓋を開けることにした。蓋はネジ込み式になっており、一度回さなければ開かない構造になっていた。ちょっとした力では、蓋はビクともしない。この6年間、おそらく一度も開けられることがなかったのだろう。ガリッと蓋が動いた瞬間、全身をビリッと電気が走り、私の視界がふっと消えた。停電でも起きたのかとも思ったが、そうではない。一瞬、私の目が見えなくなったのだ。

それでも蓋を回し続けると、それはあっけなく開いた。壺の口までぎっしりと骨が収められていた。昌久さんの亡骸だ。こんな形で会うことは望んでいなかったが、御生前の彼にとうとう会うことができなかった私は、どうしてもその亡骸をこの目で確かめたかった。そして、じかに触れたかった。彼がこの世に存在した痕跡として残された、彼の骨に触れたかった。

掌を差しのばし、そっと骨に触れた。骨の欠片の端は尖っていて、それがチクチクと掌に突き刺さってくる。その感触をもって、私はとうとう彼に触れることができたと実感した。

そのとき触れたのは骨であったが、なんだか彼の掌に触れたような気分に浸っていた。というのも、その数時間前、私は旭川で合流したTさんと掌を合わせていた。Tさんの手が大きく見えたので、大きいですねえと言って、つけ合わせたのだった。なぜか、その時の感触が重なって感じられた。

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「見る自分の触覚と見られる他者の触覚と言うのは、ベロとベロをくっつけるようなもの。ベロは非常に触覚的な要素が強いから——。もう70人くらいやりましたよ。自分のベロと他人のベロをくっつけて写真撮る〈中略〉舌の先の感覚はやっぱり凄いものだと……〈中略〉見る主体は見られる客体でもあるということ。セルフ・タイマーをつけて遠くから撮ると言うことではなくて、手で触れる位置から見るとどうなるか」
対談 深瀬昌久×石内都 セルフ・ポートレート—自分の骨を撮ってみたい。いやあれはただのゴミだ。(『イメージフォーラム』1991年8月号)

昌久さんにとって、写真を撮る行為は、目で見ることよりもむしろ、手で触れることの延長線上にあったのではないか。興味をそそられたものや愛する者を写すことは、無関係の立場から奪い取ることではなく、手の届く範囲で触れて愛でることだったのではないか。彼にとって良い写真とは、写真の先にあるものと触れることができた写真だったのではないか。

濁りなき純白の姿になった彼に触れながら、私はシャッターを切った。

 

深瀬昌久の写真家キャリア40年を網羅した集大成「MASAHISA FUKASE」が赤々舎より9月に発刊されます。この先行予約が始まりました。今月中に予約すると、9月1日より順次発送されます。全26章。416ページ。掲載図版468点。50,000字の作品解説と10,000字の資料が深瀬昌久の全貌を紐解きます。
http://www.akaaka.com/publishing/masahisa-fukase.html