祖父の記憶


寝つけない夜、ふとしたきっかけで祖父を思い出した。書棚から、自分が保管している祖父最期の2年間の日記を取り出し、ページをめくった。

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祖父の日記、2010年と2011年。祖父は2012年7月30日に亡くなった

祖父、小菅正夫は大正12年8月5日生まれ。

昭和19年9月、神奈川県溝の口東部62部隊に入隊。このとき、21歳。昭和20年、8月15日終戦。船でシベリア・ウラジオストックを経てシベリア鉄道でウスリースクに入り、ここで強制労働をさせられた。昭和21年12月、シベリアからの引き揚げ船「栄豊」で舞鶴に入港。昭和22年1月22日、自宅に到着。

昭和24年、26歳で株式会社コスガに入社。主にアメリカ人来客者を相手に営業に務める。昭和36年、38歳で同社を退社、西大久保にコスガ化粧品店を開店。昭和56年、コスガ薬局を開設。以後、店主を務めた。

几帳面でマイペースな性格の祖父は事細かに日記を記すばかりか、ときに英語と時事を交え、読む者を楽しませてくれる。

祖父がとりわけ重要視したのが自分史だった。僕もよく祖父の自分史まとめを手伝った
祖父がとりわけ重視したのが自分史だった。最期の最期まで忘れまいと何度も記していたようだ

最期の数年間は病院と自宅を行き来していたが、祖父が「商売道具」と呼ぶ筆記用具や世界地図、絵の具や色鉛筆、そしてなにより祖母がすぐそばにいる自宅はなによりの環境だったようで、家に戻ってきたときは目を輝かせていたのを覚えている。

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日記の隅々に生きる喜びが綴られていた

日記はもちろん、日常でも祖父は温厚で、いつも笑っていた。若いころの自分はその姿を見て、そのとき自分ができることをなんでもやっていたからかなと思っていた。しかしいま祖父の日記を振り返ってみる限り、祖父はあらゆる事物に感謝しているように感じられ、ただ楽観的な人だったわけではないことを知った。

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祖父の日記では「感謝」という言葉の登場回数が多い

祖父は最期までボケることがなかった。つまり、前は出来たことが日ごとに出来なくなっていく「老い」を確実に意識していたはずだ。それへの苛立ちもあったに違いないはずだが、祖父は少なくともぼくにそうした側面を見せることは一度もなかった。

最期の病院でも、祖父は「周りはみんな杖を使うんだけどね、ぼくは使わないんだ。自分の足で歩くんだよ。ほら、見てご覧」と自分の足で歩けることを誇りにしながら、いつだって前向きな心持ちでぼくに接してくれた。

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2011年4月24日の日記。これまでの人生を振り返り、満足気に大きく「感謝」と締めている

ようするに、祖父は経営者だったのだ。38歳で自らの店を構えて以降、30年近くにわたって一家6人を支えてきた大黒柱だった。祖父の日記に「私は今迄の目標として薬局を持つことに総てをかけた」と記されていることからもよく分かる。ぼくも去年から自営を始めてみて、ようやくほんの少しだけ、祖父の心持ちが分かってきたような気がする。

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感謝、感謝、感謝。振り返ると祖父は自分の気持ちを素直に伝える人だった。

昭和36年、希望を胸に店を構えた祖父は、新宿の地でどんな働きぶりを見せていたのだろう。奇しくも先日、現在はぼくの父が経営する店の大掃除から見つけ出されたチラシがその片鱗を教えてくれた。これはまだ父も働いていない時代、祖父と祖母がふたりで始めた当時の店のチラシである。

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当時のチラシからは、なんとかお客に楽しんでもらおうと、あの手この手で企画している祖父の姿が垣間見られた。幸運のトランプだなんて、なんとも楽しそうな響きじゃないか。祖父は自分のために生きていなかった。家族のため、お客のため、自分が構えた店のため、生きていた。だからあの笑顔、あの性格だったのだ。とことん明るいが、最期まで諦めない男だった。

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2011年の日記に挟まっていた祖父の名刺、そして祖母との写真

日記をふりかえっているうち、祖父が亡くなったときのことを思い出したくなっていた。亡くなったあの日、自分の記憶から祖父が消えていってしまうことを早くも恐れた自分は、その日起きたことをメモした。今回それを掘り起こしたので、自分の備忘録のためにもここに残したい。

2012年7月30日 19:39
日暮里駅の北口で父・母と合流
日暮里・上宮病院にタクシーで到着

7時45分 二階へ上がる
到着と同時に祖母が手招きしていた
5分の遅れで最期は看取れず

じいちゃん 目から涙が流れているようだった 最期に泣いたのか
体から体液が出たのかもしれない

手を触る まだ暖かい 足はもう冷たい
目は薄めで閉じない 口には出血の後が見られた

頭髪は剃られ、体は記憶よりも一回り二回り小さくなっていた
誰もが動揺していた 祖母、目を赤くしている
小さくなった体とは対称的に、大きく膨れ上がった両手
赤くあざになった箇所も

7時51分 まだ若い担当医師が到着
3つの確認箇所を診断で、死亡を確認
最期まで持っていたノートを譲り受ける

遺体を洗う作業へ
兄、合流 足を確認 かかとがいように大きい
ベッドでの生活が長かったせいか、筋肉は確認できない
赤ん坊のようにひざを曲げ、〈 〉状にしていた

空腹を満たすため、小さなケーキをふたつ食べる
兄と簡単に会話

一階へ下り、5人でまずは落ち着く
父が葬儀の手はずを取るため慌ただしい
新宿のおじちゃんから連絡など

田舎は、ばあちゃんだけでは来れない
おじちゃんに一任し、連絡を済ませる

看護師が入れ歯を見つける 口には綿を入れたあと
もう間に合わないと判断 棺桶に入れることで合意

看護師がじいちゃん最後のメモをくれた
亡くなる何日か前に書いたものとのこと
謎の絵と英語、そして「小菅」「小菅薬局」

体は手・足・頭など末端から冷え始めたが、
21:31現在、まだ心臓付近は暖かみを残している

半目の状態が仏様のようだ
一点を見つけるようで、全体を見つめている
なにかを見つめるようで、なにも見つめていない
目はいくら閉じてみても閉じることはなかった

21:57 死亡診断書が出る

小菅正夫 老衰にて永眠 享年88
反復性誤嚥性肺炎
廃用症候群

後日談 父と兄の話
昨日、目は開いて覚醒していた
手を動かして、話をすれば握る感じ
一週間前、文ちゃん(兄の長男)の写真を見せて
「かわいいね」「あー」と返答

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祖父が亡くなる日まで側に置いていたフォルダー。日記やノート、ペンケースなどが収納されていた
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ペンケースにはたくさんの鉛筆と色鉛筆が入っていた。祖父は絵を描くのが大好きだった
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フォルダーには父1歳の写真がラミネートして収められていた。大きく「KOSUGA」の字
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祖父が最期まで持っていたクリアファイルに収納された写真アルバム。祖母を写した2枚
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写真・上は私が写した1枚。下は祖父による私と祖母
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写真・上が祖父、下が父