彼、深瀬昌久の残像を追って

8月10日、北海道北部に位置する中川郡美深町にて、深瀬昌久の納骨式を執りおこなった。
2012年の没後、昌久さんの遺骨は諸事情により第三者が保管していたが、今年7月に遺族へと返還された。すぐに納骨式の日程が決まった。私はかねてより昌久さんを故郷の大地に還してあげようと提案してきただけあって、北海道行きの自分のフライトを手配し、昌久さんの甥にあたるTさんと一緒に、遺族式に参加することを決めた。
数日前から関東地方を直撃するのではないかと騒がれていた台風13号。フライト日程を変更することでようやく旭川にたどり着いたが、式をおこなう当日の朝はあいにくの雨模様だった。深く霧がどんよりと立ち籠めていた。
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始まりへの旅

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今年4月、母方の従姉妹がなくなった。上京していた彼女は食欲不振から腸捻転を起こし、ひとり部屋でなくなっていたという。二十代半ば、家族を持たずして旅立っていった三姉妹の三女。葬儀に駆けつけられなかったため初盆に帰省するという母と話し、私もついていくことにした。すると父も一緒に行くという。4年ぶりの会津田島はまたしても家族での訪問となった。

4年前、母方の婆様が施術で入院した。このときは、せっかくだから家族の撮影もしたいと呼びかけたところ、兄も含めた家族4人での訪問となった。2012年3月11日。東日本大震災から丸一年が経った日だった。田島についてテレビをつけると、ちょうど東京の国立劇場で東日本大震災1周年追悼式の行なわれる様子が流れていた。天皇、皇后両陛下の姿があった。

このとき、写真で「隙間」をテーマに撮影していた私は、母の実家で改築を逃れて現存する表2階の床の間を撮影場所にしようと考えていた。メインモデルは母である。裏のおばさんから絣(かすり)の上っ張りともんぺを借りてきてもらい、着てもらった。そしてなにか小道具はないものかと、これまで触れたことのなかった床の間の天袋を開けてみると、中からは大量の巻物(残念ながら大したものではない)と天皇皇后両陛下の写真が出てきた。聞けば昔は飾っていたものだという。巻物のひとつを紐解いてみると、「天照皇大神」と書かれていた。これも昔は床の間に飾っていたものだという。その場のひらめきで、これらを撮影に起用することにした。

幼いころ、夏にやってくると、この表2階で寝泊まりしていたものだが、布団に入って見上げれば先祖の写真と目が合うわけだから、なにかと不気味だった。障子がぴたっと閉じきっていることは稀で、少し開いた隙間がどうしても恐ろしく感じたものだ。その記憶が想起されて、このテーマでの撮影に挑もうというわけだ。かねてよりホラー物が大の苦手なのだが、このときばかりは身震いしながら撮影に取り組んだ。このときの写真が、上の71枚における前半部分だ。平成24年3月11日。冬の南会津は雪深く、空は抜けるように透き通っている。

「隙間」、「天照大御神」、「天皇陛下」。ここから導いたのは神話にある「天岩戸開き」だ。太陽神、アマテラスがある日、機嫌を損ねて岩戸に篭もってしまった。すると世界は闇に包まれた。困った八百万の神々は知恵を振り絞って、アメノウズメに裸のダンスを踊らせ、神々はこれを見て声高らかに笑って見せた。この様子が気になって少し岩戸を開いてみせたアマテラスに、アメノウズメが言う。「あなたより尊い神が現われたのです」。そこに八咫鏡が差し出され、映り込んだ自分の姿を尊い神と信じ込んだアマテラスはもっと身を乗り出す。そのとき、怪力のタヂカラオがむんずとアマテラスの手を引いて、岩戸から引きずり出した。かくして世界は光を取り戻したという。〝日本最古の引き篭もり〟とも呼ばれる話である。この年、皆既日食がおこった。偶然といえば偶然だが、これに岩戸開きを重ねた私は「隙間」シリーズに皆既日食の1枚も加えることにした。

ほんの数ヵ月前、従姉妹の家族には孫を失うという耐えるにも耐えきれないほど辛いことがあったけれど、そんな素振りはひとつも見せず、来客の僕らを迎えてくれた。この地には笑顔が絶えない。人と人はつながっていて、お裾分けをしながら繋がっている。トウモロコシ、アスパラ、トマト、枝豆。たくさんのお土産を頂いてきた。辛いことはみんなで分け合って小さくし、歓びはみんなで大笑いして大きくする。こちらの人たちは「さすけねえ」というあまり聞き慣れない単語をよく発する。「大丈夫だ」という意味の会津弁だ。さすけねえ、さすけねえ。大丈夫だ、気にしなくていい。聞けばなぜか、ほっとする。見えない気遣いがこんなところにもある。
田島に着いた日、親戚のおしんさんがなにやら小判がたくさん成ったような枝をむしっていた。大判草とか銀扇草と呼ばれるそれは「合田草」とか「ルナリア」といって、月のようにまるく白く輝くことからそう名づけられたらしい。3枚の葉が重なっていて、枯れると外側の2枚が落ちる。すると種が表われ、さらに種を取り除くと、白く輝く葉となる。ドライフラワーとしても人気だそうで、もとはフランスから持ち込まれたものらしい。たしかに、プラチナに輝く満月をイメージさせる葉だ。太陽と月の因果を勝手に想像した私は、これを今回の旅におけるキーにすることにした。
自分のルーツ探しのために始めた「始まりへの旅」。今回は母の記憶を辿る旅だった。といっても回顧に浸って現実逃避するためじゃない。前に進みながら、ここぞという一歩で諦めないためだ。ひとりで生きてるんじゃない。血筋という家族の記憶を知ること。ときには途絶えるものもあるかもしれないが、たすきは引き継がれる。周りの人々がいて、初めて自分がある。

2泊3日の盆を会津田島で過ごしたのち、帰宅すると、今度は父方の祖母から電話があった。「あんた、今日来た? 誰かが玄関をノックしたの」——ああ、じいちゃんおかえりなさい。その足で祖母のところを訪れ、線香を上げた。東京の盆は1ヵ月前だが、マイペースな祖父のことだ、ありえなくはない。祖父の固くシワが刻まれた大きな手に触れたときのことを思い出した。
目を閉じて、記憶に意識を集める。一人ひとりの声と動く姿がありありと浮き上がる。見えないところに始まりがある。そこから再び旅立つ。

家族

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3月30日、ゴールデンウィークに差し掛かった日、実家で家族4人、家族会議をした。今後のこと、実家のこと、店のこと。両親の老後のこと。結論のひとつとしては、私が実家に保管していた物品をなんとかしてくれとのことであった。
よし、では今からやろうと声をかけた。
かつては私の部屋であり、現在は父の書斎となった部屋の押し入れから段ボールを引きずり出しては、残すものと捨てるものを振り分けた。夕方5時から始め、途中夕飯と会話を挟みながら、1人、1人と脱落者をよそに、しまいには夜の11時まで続けた。その甲斐あって、残すものは段ボール5つほどにまとまった。私の青春、20年間は段ボール5つ程度。もう少し残したかったものだが、現実的にスペースがないのだから仕方がない。それにしても、昔なら力仕事は任せろといわんばかりの父は、いつの間にか作業の途中で居間に寝転び、寝入ってしまっていた。気づかぬうちに父が老いたことを知った。
私は中学1年から写真を始めたので、実家を整理すれば自然と、写真の整理にもなる。山ほどのプリントを1枚1枚、これは要る、これは要らないと振り分けていった。私にとって写真の全盛期は大学生時代。デジカメのデータを掘り起こせば、毎日撮影したデータが出てくる。フィルムも似たようなものだ。なにせ首からコンパクトカメラを5台は吊り下げていたほどであったから。
その時代、つまり今から10年以上は遡った父と母の写真も出てきた。私にとっての彼らはその時代のイメージが強い。反発と愛が毎日、交互に繰り返されていた。喧嘩をよくした記憶があるが、その割には気持ちのいい写真ばかりが残っていた。なにより写真のなかの2人は若かった。生き生きとして見えるし、顔も軽やかだ。10年という歳月が人に与えるものとして、目には見えないものを感じた。その写真を持ち帰り、家で1人、眺めていた。そして寝床で、父と母を連れて昔の家を回ろうと決めた。
今朝7時半に目覚め、実家を目指した。両親はちょうどこの日、簡単な仕事を片付けたらそれで1日をおしまいにしようとしていた。なんとか説得をし、9時に集合、半に出発した。
私の記憶では、我が家はこれまで2回ほど引っ越している。しかしどれも近距離の範囲だ。戸山ハイツから早稲田に移り、さらに早稲田内を移動している。なぜ近所を転々としたのか? その理由には、店の存在が挙げられる。父が経営する薬局から遠くならないことが実家の最優先事項だった。つまり、かつての実家らを巡るうえではどれも徒歩圏内に位置するため、今回の撮影においては好都合な条件なのであった。
なるべくピントは両親に合わさず、つまりぼかし、背景に合わせる。ここで重要なのは彼らではなく、彼らがかつての場所にいることだ。私たちはかつての住処をいま、この時代に再び訪れている。つまり時の観点では、いまでなく、かつてである。つまりここで彼らの表情や皺、髪の毛はさほど重要でない。私は正直、彼らが老いたことと向き合いたくなかった。しかしピントをぼかせば、映り込んだ顔はいくぶん見覚えあるものに感じられた。
この小さな旅において、最終地点は戸山ハイツの玄関だった。私が物心つく頃から住み、高校3年まで住んだ家。質素な暮らしだったが、すべてが詰まった家。大好きな家。私はことある毎に訪れている場所だが、父と母にとっては15年ぶりだった。戸惑う彼らに思考の余地を与えないまま、とうとう辿り着いてしまった。
かつての我が家は2階に位置するのだが、階段から上がってすぐを右に曲がると、ずらっと奥まで長く続く廊下に出る。不思議なことに、廊下が目に入った瞬間、毎回のようにフラッシュバックが起こる。15年の歳月がまるで15秒だったのかのように。あの日はまるで今日であるかのように。胸にこみ上がるものを抑えながら、父と母をかつての玄関前で写した。低速シャッターを下ろしているあいだ、彼らには首をよこに振ってもらった。やはりここでも、彼らの現在の顔はどうでも良かった。ここに存在し、あの日の記憶に私たちが還るため、あるいは普遍的な父と母の肖像を捕らえるためには、具体的な顔というものはむしろ邪魔だった。
何度、扉をノックしようか悩んだことだろう。扉の先には、あの日の思い出がたくさん詰まっている。でも叩くのはやめた。写真を振り返れば、いくらでも還れるのだから。じいちゃんもいる。みんな元気な姿で写真のなかで生きている。写真のなかに写り込んでしまった環境は私にとって絶対に崩れない幸せの塊であり、すべてが腑に落ちる。
初めはぎこちなく共に並んで写っていた2人だったが、撮影も最後のほうになると距離が近づき、いつの間にか寄り添っていた。寝不足の腫れた顔で急きょ挑んだリハビリ撮影だったが、わずかに取り戻せたものがあった。

祖父との記憶

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物心つく頃から、店の裏口が秘密基地だった。

祖父と父が経営する自営の薬局では、納品された薬の段ボールが山のように出る。そのひとつに身を潜めながら、妄想に耽る幼少期を過ごした。両親は共働きだったが、兄と私を鍵っ子にさせたくない思いから、放課後から店を閉めるまでは店の裏手で遊ばせるようにさせていた。
遊び相手を興じるのはいつも祖父だった。店の経営者として切り盛りしていた祖父は店の調剤室の一角に木製の机を置き、いつもそこにいた。学校から帰ると、真っ先に向かうのは祖父の下。調剤室の白い扉を開くときの音まで鮮明に覚えている。
祖父は様々な遊びを教えてくれた。不要になった紙を横長に裁断して作った祖父お手製のメモ帳になにやら川と橋を描き込んだかと思えば、鉛筆を渡し、そのお尻を指で押さえ、先端を紙の上に乗せ、うまく橋を渡れるように鉛筆を弾いて、その軌跡で橋を渡ってみなさいといったように。「やあ、ともくん。今日の学校はどうだったかい?」——祖父はいつも笑顔で迎えてくれた。
高校の頃、祖父が脳梗塞で倒れた。女子医大に運ばれ、緊急手術を受けた。昏睡状態を経て意識を取り戻した。これが引き金となって、身体の半分がマヒしてしまった。しかし持ち前の前向きな性格からか、次第に体調を取り戻し、マヒしていた半分も動かせるまでに回復していった。この出来事の前後に、私は祖父母の家でアルバムを見返すようになった。そこには家族や旅行、スナップが広がっていた。実によい写真を撮る人物だと知った。
祖父、小菅正夫は大正12年8月5日生まれ。
昭和19年9月、神奈川県溝の口東部62部隊に入隊。このとき、21歳。昭和20年、8月15日終戦。船でシベリア・ウラジオストックを経てシベリア鉄道でウスリースクに入り、ここで強制労働をさせられた。昭和21年12月、シベリアからの引き揚げ船「栄豊」で舞鶴に入港。昭和22年1月22日、自宅に到着。
昭和24年、26歳で株式会社コスガに入社。主にアメリカ人来客者を相手に営業に務める。昭和56年、コスガ薬局を開設。以後、店主を務めた。第1章の前半は曾祖父のシンガポール遠征から始まり、祖父の籐家具販売員時代である。7ページ目の左ページに写る外国人の紳士は当時のお客で、よく観ると籐でできた椅子に座っているのが分かる。また右ページのビルは小菅ビルディングで、屋上に取り付けられた「小菅の籐家具」という看板が確認できる。株式会社コスガの創業は1862年。2008年、業績悪化により倒産。翌年、職人有志数名を集めて新会社「コスガの家具」として再スタートを切っている。
昭和36年、38歳で同社を退社、西大久保にコスガ化粧品店を開店。その店舗が10ページ目である。始めこそ化粧品を取り扱う店として幕を切るが、父が薬剤師免許を所得したのち、1981年、コスガ薬局を開設。第2章は、祖父と父、そして祖母、母というコスガ一家で切り盛りする時代である。13ページ目は祖母と戯れる幼き頃の兄だが、私たちはこうして店を根城にしながら育っていった。16ページ目、店の調剤室で父が調剤する後ろ姿をとらえた1枚には、父に対する祖父の期待と祝福のまなざしが感じられる。19ページ目、今度は父の視線からとらえた祖父の後ろ姿からは、家長として店を守らんとする姿勢が垣間見られる。
祖父は日記が好きだった。最後となった病室でも、小さなメモ帳を肌身離さず持ち歩き、日々の記録をした。祖父が元気だった頃は、年の暮れに差し迫ると日記帳をプレゼントとして買って持っていくようにしていた。祖父の家から見つかった日記帳を開くと、祖父の誕生日の欄に、私から祖父へのメッセージが書かれていた。どうやらその日記帳を買ったとき、サプライズで誕生日の欄にひっそりメッセージを書いていたようだった。それに対し、祖父は返事を書き込んでいた。そんなところにも、祖父との対話があったのだと改めて知った。
兄がうまれたのが1980年、私が1983年。1984年から1986年に書かれた日記帳では、私たち兄弟の独擅場であった。日に日に成長する2人との出来事や発見が生き生きと綴られる。すると不思議なことに、同時期に写された祖父との写真が見つかるのだ。第3章ではどんな気持ちで祖父が家族と向き合ったのか、それを日記と写真から振り返った。
私の知る限り、祖父は温厚な性格だった。いつもニコニコしていたし、前向きで明るい人だった。しかし日記の筆跡を辿るうち、祖父は意識的にそう心がけていたのだと知った。家長として、経営者として、祖父は努めていた。おそらく祖父には夢があった。そのために自分はなにをしなければいけないのか、それを見つめていたように思う。2011年、祖父はこう記している(53ページ目)。

私は今迄の目標として薬局を持つ事に総てをかけた。自分も今、87才で益々健康で日々楽しんで居る。日々の感謝を持って益々元気である事と、照子と共に過ごす事である。 感謝

2012年7月30日 19時51分。祖父は88歳で他界した。ベッドには、いくつかのメモ帳が収められたプラスチック製のバインダーが遺されていた。中に1枚の名刺が収められていた。時間が経ってボロボロになったそれはコスガ薬局での祖父の名刺であった。ウラには「くすり」とマジックペンで書かれていた。最期の最期まで、祖父には薬局のことが気がかりだったに違いない。この日、父は祖父の死に際に立ち会えなかった。いつも通り、店を開いていたので、ようやく駆けつけた数分前に祖父は逝ってしまった。しかしこの名刺を観る限り、祖父はそれを咎めたりはしないだろう。今日もコスガ薬局が無事に開店し、いつものお客さんが訪れ、対話をする父の姿を祖父は想像しながら逝ったのではないだろうか。そして、ここにまとめた祖父の人生を走馬燈のように駆け巡りながら。
2105年12月19日。久しぶりに祖母の下を訪れた。何気なしに開いた引き出しから、ひとつのポジマウントを見つかった。清々しい冬の昼下がり、太陽に照らして観たら、そこに写っていたのは幼き頃の私と祖父の姿だった。祖父は私を抱きかかえていた。私は祖父だけを見つめ、微笑んでいた。やあじいちゃん、また会えたね。この発見が私を突き動かし、この日、実家から持ち帰った様々なアルバムと祖父の遺品で、一冊の写真集を編むことを私は決めた。
7章はこのとき見つかった絵本である。祖父は旅の絵本をさもアルバムに仕立てるかのように、かつて私が撮影した祖父の写真を貼っていた。ページをめくるにつれ、写真は減っていき、しまいには絵本だけになっていた。絵本の最後は、大海を舟で渡る男性と、それを岸から見つめる馬の姿だった。私と祖父の写真集『祖父との記憶』はそこで閉じることにした。

祖父との対話

015年12月19日(土)

祖父の遺品のひとつである補聴器をつけてみた
隣りの高層ビルを夢中で説明する祖母を横目に、祖父の補聴器をつけてみた

「ともくんさ、つぎ来るとき、しめ縄交換してくれない?」
先日、祖母の下を訪れた際、そう頼まれていた。年内には交換したいということだったので、週末らしい用事のひとつとして、祖母宅に立ち寄ることにした。あらかじめ電話で確認すると、新しいしめ縄はちょうど今朝、買ってきたところだという。
10年近く前まで、神棚は奥の部屋の天井ちかくに設置されており、高齢化の進む祖父(当時は祖父の担当だった)が神棚の水替えのため、毎朝丸イスによじのぼるのは危険だという判断で神棚を降ろし、そのついでに作りを簡略化してしまったのを覚えている。
いま思えば、もう少しやり方があったなあと、毎度見るたびに反省するほどいまでは粗末なありさまではあるが、とにもかくにも、今年もしめ縄を交換することができ、役目をまっとうして満足した。
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神棚は一部を残して簡略化してしまいこのありさまだが、とにかくしめ縄は交換できた

ついでだからと、祖父の遺品をすこし見ることにした。
カラスのようにがらくた集めが趣味だった祖父であるから、残されたものは少なくない。本来なら、祖父が亡くなった2012年にその多くを処分する予定だったが、ぼくが写真に収めたいからと引き留め、その発言の責任も負うことなく、それから3年が経っていた。
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これも良い機会と思い、祖父の棚の引き出しを開けた。
独特な祖父の筆跡と共に、期待通りのがらくたが姿を現わした。がらくたなんて言ったら怒られてしまうかもしれないが、がらくたはがらくただ。厄介なことに、がらくたを集める癖は、確実にぼくにも引き継がれている。 それから、父にも、兄にも。
がらくたの山を、この日祖母が眺めていたチラシの上にひとつひとつ並べ、撮ることにした。
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世界各国数多のコイン、用途不明の光り物、壊れているけれどなんだかかっこいい昔のセルフシャッターレリーズ、ハーモニカ、無意味にいくつもあるトランプ、キーホルダー。
ううん、いいねえ。
撮影しながらつい唸ってしまうほど、良いがらくたたち。ぼくの〝無意味なものにも意味を見いだしてしまう審美眼〟は、祖父から引き継いだものなのだとついに知った。もっとも、骨董に手を出すよりはマシである。
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引き出しのなかを次々に洗っていくと、大ぶりの箱に手がのびた。
あけて真っ先に目に入ったのが、5枚のマウントポジ。おもむろに手にとり、空にむけて眺めた。
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5枚のうち2枚は、ぼくと兄の写真だった。
二人とも特徴的なヘアスタイルをしているので、当時の記憶も容易に辿ることができる。これは兄が高一、ぼくが中一のときのもの。3歳離れた兄とは中学こそ同じだったが、兄が卒業するタイミングでぼくが入学した。
二枚のうち、上の写真では二人の背後に兜が映り込んでいることから、端午の節句の時期のものだと分かり、下の写真では仰々しい姿勢と、当時暮らしていた都営住宅33号棟のすぐ下で撮っていることから、家族恒例の記念撮影だと分かり、つまり二人の入学式かなにかの日だろう。
だいたい祖父の持ち物は知っているつもりでいた。だけど祖父がこんな写真をしまっていたとは、今日まで知らなかった。
それだけじゃなかった。
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発泡スチロールの箱にしまわれていたもう一枚は、それだけボールペンでマウントにメモがしてある。眼鏡マークの下に「70才」、そしてその右横に「智和 10才」—。
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やあ、じいちゃん、こんにちは。また会えたね。
コスガ薬局の調剤室奥にあった祖父の仕事机は、幼いころのぼくの遊び場でもあった。姿勢正しく机に向かう祖父だが、ぼくの登場によって一気に緩み、手のひらを広げて待ちかまえるのだ。そして鉛筆と紙切れひとつで遊び方を教えてくれる。まるで魔法使いのようで、膝のうえに乗りながら夢中になって遊んだっけ。
この日、祖父との記憶がよみがえった。
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早朝5時、我が家のベランダから富士山を望む

ここ最近はすっかり自分のルーツ探しに夢中だ。
しかし、これはなにも今に始まったことではなく、ぼくの場合、小学生のころからそうだった。なぜ自分が存在するのか、不思議でたまらなかったのだ。いまなにかを考えるこの「自分」が果たして何者なのかが分からない。自分で自分がだれなのか分からない。
こういうことも考えたことがある。家族のなかでも、床に就く時間はまちまちだ。寝ている時間は自覚がない。それはつまり、寝ついたら最後、意識はすぐ明日へ行く。これを当時のぼくはこう考えた。となりで寝ている兄はもう寝ついている。すると、もう兄は明日に行ってしまったんじゃないか。それを追うように、ぼくが寝つけたとしても、明日会う兄はまったくの別人なんじゃないか……と。
そういうマインドに入ったときは決まって、視界がぐらぐらとし始め(それは実際に歪曲していた)、焦りと混乱で冷や汗をかくのだった。
昭和37年、父の幼少時代、一家での記念写真
昭和37年、父の幼少時代、一家での記念写真。家族を全身で包む祖父の姿

昭和59年7月11日。智和10ヵ月、じいちゃん61才、秀和3才
昭和59年7月11日。智和 10ヵ月、おじいちゃん61才、秀和3才

いま振り返れば、ぼくはなんらかの疾患を抱えていたのかもしれない。
しかし医者に病名をつけられたからといって、たちまち異常者になるわけでもない。そもそも完璧な人間など、一人とていないのだから。欠けているところが個性とも言える、かもしれない、し。
もっと辿れば、本来はぼくの兄のまえにもう一人生まれていたのだ。
残念ながら、その子は生きることができなかった。父と母はもともと二人の子を育てるつもりだったから、もしその子が元気に育っていたら、ぼくはこの世に存在しなかったかもしれない、と聞いたことがある。
命とは、そんなものかもしれない。命のバトンを受け取ったぼくが偶然生まれ、そして今日まで健康に生きられている。自分の歴史を紐解けば紐解くほど、自分ひとりではないことに気づくことができ、一体自分とはだれなのか、それがようやく少しは分かってきたような気がする。
コスガ薬局の前身、コスガ化粧品店の当時の写真を父が見せてくれた
コスガ薬局の前身、コスガ化粧品店の当時の写真を父が見せてくれた

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祖母と叔父。美しい一枚だ

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わんぱく坊主だった父の幼少時代

赤ん坊の叔父と曾祖父、小菅重蔵
曾祖父、小菅重蔵が赤ん坊の叔父を抱きかかえる

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祖父とぼくの幼いころ。セルフタイマーで祖父が撮影

私の記憶

2015年12月16日(水)
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この10年間、よく夢に見る景色がある。
1階には2台のエレベーター。ぼくはそのどちらかに乗り込み、2階のボタンを押す。無事に2階で降りられることもあるが、そのまま止まらず、上まで昇っていってしまうことも。無事、2階に降りられたときは、降りてすぐを右に曲がると、ずっとずっと奥まで長い廊下がつづく。
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廊下の先を進み、いくつかの部屋を過ぎると、左側の或るドアに手をかける。
そこまで来てようやく「ああ、ここからはもう引っ越したんだっけ」と思い出すが、都合良く「ここはこれからも使えるはず」と思い直し、秘密基地でも手に入れた子どもよろしく胸を躍らせる。
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東に向かって並んだふたつの部屋は一面が掃き出し窓になっており、日差しがよく入る。ガラガラガラという懐かしい響きと共に窓を開けば、眼前に広がる木々の隙間からカアカアと啼くカラス。
だれもいないその部屋に辿り着くことを目的とするか、あるいはうちに帰ってきたはずが、なぜかこの旧家にたどり着き、また別の道を歩かなければならないことに辟易する、といった夢。その場合、なぜかぼくの大切なものはこの部屋で、重なり合った段ボールに収納されながら置かれている。

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当時の家から出るとまず初めに目に入る景色は、いまも変わっていなかった

そこは「戸山ハイツ」と呼ばれる、古くは終戦後のGHQ統治時代に遡り、戦後初の大規模都営住宅として名を馳せた巨大団地の一角だ。そして夢のなかで辿り着いた部屋はほかでもない、ぼくがかつて親子で暮らした戸山ハイツ33号棟の215号室。1980年代初期から2000年近くまで暮らした。
正直、あまりいい思い出がないとばかり思っていたけれど、いざ離れてみて、この地がいかに大切なものであったかを噛み締めている。まさか、たびたび夢に見るほどとは。
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その後は両親の仕事の都合もあり、近所を転々としてきたが、この団地だけは格別の記憶となって脳裏に焼きついている。
いま振り返ると、あまり裕福な暮らしはしていなかった。どちらかといったら、その後の生活のほうがまだ暮らしは落ち着いていた。
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かつて家族と暮らした215号室

生活は苦しくても、家族4人でコタツを囲み、大笑いをしながら過ごした日々は特別だ。子ども時代の鬱々とした日々でさえ、あれがあっていまの自分があると思えば、こみ上がるものがある。ひとつひとつのエピソードが音声と共にありありと蘇る。
兄と2人で過ごした三畳の部屋、幼いころ、寝つけずにいると天井に差し込む外からの光。とうてい手の届かない高さにある欄間。
先日、ふいにぼくを包み込んでくれた祖父の面影を追っていくうち、今日、数年ぶりにこの地を訪れていた。本当の用事は別にあったのだけれど、12月らしくない朗らかな陽気に誘われ、父の電動自転車にまたがって。
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ここ戸山は新宿区のなかでも稀なほど、自然環境の整ったエリアだ。山手線内最高峰とされる箱根山を擁し、団地と団地のあいだを埋め尽くす木々のおかげで、四季折々の表情を持つ。
保育園、小学校、中学校、高校。このすべてを、ぼくはこの戸山で一貫して過ごしてきた。それこそ保育園を除いたら、残りすべての冠に〝戸山〟とつくほどだ。ようするに、18歳までのぼくを形成した大地はここにあった。
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自転車にまたがりながら過ぎ去る場面のひとつひとつは、ぼくにとってあまりにも大切なパーツなのに、こぐ速さで目まぐるしく先へ先へと進むわけだから、途中からの景色はまるで走馬燈。この数年、目を閉じては噛み締めていたかつての景色がまさにいま眼前に広がるという事実をなかなか受け入れられずにいた。
少し前までは、いつかまたこの地に戻ってきたいと思っていた。しかし今日、改めて訪れ、もう戻ってきてはいけない場所なのだと思い返す。なぜなら、ぼくの故郷はぼくのことを異物として捉え、容易には受け入れてはくれないように感じられたからだ。ぼくはもう、ここで育ったぼくではなくなっていた。
大親友が暮らした団地もいまは更地になっていた
大親友が暮らした団地もいまは更地になっていた

ぼくにとっての 居心地よさでいったら最上級の環境はきっと、ここなのだろう。しかしそれは手放したからこそ感じられるものであって、万が一そこに戻るとしても、それはいまじゃないはず。
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「今日あそぼうぜ」「なにして遊ぶんだよ」
ちょうど下校途中の小学生が通学路を占領していた。ランドセルに上着をはさみ、手には枝を持って。なんだ、20年前となにも変わらないじゃないか。
変わったこともたくさんあるだろうけれど、変わらないものもたくさん確かめられた。
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1時間ほど方々を駆け巡ったのち、隣接地域の都営住宅で暮らす祖母の下へ。
実家を訪れた際には祖母の顔も確かめることにしている。訪ねると、待ってましたとばかりの満面の笑顔。そしてついでだからと、祖父なきいま、昔のことを知る祖母から昔の話に耳を傾けた。すると、あっという間に陽は落ち始め、話半ばに慌てて飛び出す。
祖母の話については、またいずれそのうちに。
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2006年に撮った祖父

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2015年のいま、祖母を同じ場所で。すぐ隣りではガラス張りの超高層マンションが建設中

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2006年

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現在

祖父の記憶

寝つけない夜、ふとしたきっかけで祖父を思い出した。書棚から、自分が保管している祖父最期の2年間の日記を取り出し、ページをめくった。

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祖父の日記、2010年と2011年。祖父は2012年7月30日に亡くなった

祖父、小菅正夫は大正12年8月5日生まれ。
昭和19年9月、神奈川県溝の口東部62部隊に入隊。このとき、21歳。昭和20年、8月15日終戦。船でシベリア・ウラジオストックを経てシベリア鉄道でウスリースクに入り、ここで強制労働をさせられた。昭和21年12月、シベリアからの引き揚げ船「栄豊」で舞鶴に入港。昭和22年1月22日、自宅に到着。
昭和24年、26歳で株式会社コスガに入社。主にアメリカ人来客者を相手に営業に務める。昭和36年、38歳で同社を退社、西大久保にコスガ化粧品店を開店。昭和56年、コスガ薬局を開設。以後、店主を務めた。
几帳面でマイペースな性格の祖父は事細かに日記を記すばかりか、ときに英語と時事を交え、読む者を楽しませてくれる。
祖父がとりわけ重要視したのが自分史だった。僕もよく祖父の自分史まとめを手伝った
祖父がとりわけ重視したのが自分史だった。最期の最期まで忘れまいと何度も記していたようだ

最期の数年間は病院と自宅を行き来していたが、祖父が「商売道具」と呼ぶ筆記用具や世界地図、絵の具や色鉛筆、そしてなにより祖母がすぐそばにいる自宅はなによりの環境だったようで、家に戻ってきたときは目を輝かせていたのを覚えている。
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日記の隅々に生きる喜びが綴られていた

日記はもちろん、日常でも祖父は温厚で、いつも笑っていた。若いころの自分はその姿を見て、そのとき自分ができることをなんでもやっていたからかなと思っていた。しかしいま祖父の日記を振り返ってみる限り、祖父はあらゆる事物に感謝しているように感じられ、ただ楽観的な人だったわけではないことを知った。
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祖父の日記では「感謝」という言葉の登場回数が多い

祖父は最期までボケることがなかった。つまり、前は出来たことが日ごとに出来なくなっていく「老い」を確実に意識していたはずだ。それへの苛立ちもあったに違いないはずだが、祖父は少なくともぼくにそうした側面を見せることは一度もなかった。
最期の病院でも、祖父は「周りはみんな杖を使うんだけどね、ぼくは使わないんだ。自分の足で歩くんだよ。ほら、見てご覧」と自分の足で歩けることを誇りにしながら、いつだって前向きな心持ちでぼくに接してくれた。
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2011年4月24日の日記。これまでの人生を振り返り、満足気に大きく「感謝」と締めている

ようするに、祖父は経営者だったのだ。38歳で自らの店を構えて以降、30年近くにわたって一家6人を支えてきた大黒柱だった。祖父の日記に「私は今迄の目標として薬局を持つことに総てをかけた」と記されていることからもよく分かる。ぼくも去年から自営を始めてみて、ようやくほんの少しだけ、祖父の心持ちが分かってきたような気がする。
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感謝、感謝、感謝。振り返ると祖父は自分の気持ちを素直に伝える人だった。

昭和36年、希望を胸に店を構えた祖父は、新宿の地でどんな働きぶりを見せていたのだろう。奇しくも先日、現在はぼくの父が経営する店の大掃除から見つけ出されたチラシがその片鱗を教えてくれた。これはまだ父も働いていない時代、祖父と祖母がふたりで始めた当時の店のチラシである。
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当時のチラシからは、なんとかお客に楽しんでもらおうと、あの手この手で企画している祖父の姿が垣間見られた。幸運のトランプだなんて、なんとも楽しそうな響きじゃないか。祖父は自分のために生きていなかった。家族のため、お客のため、自分が構えた店のため、生きていた。だからあの笑顔、あの性格だったのだ。とことん明るいが、最期まで諦めない男だった。
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2011年の日記に挟まっていた祖父の名刺、そして祖母との写真

日記をふりかえっているうち、祖父が亡くなったときのことを思い出したくなっていた。亡くなったあの日、自分の記憶から祖父が消えていってしまうことを早くも恐れた自分は、その日起きたことをメモした。今回それを掘り起こしたので、自分の備忘録のためにもここに残したい。
2012年7月30日 19:39
日暮里駅の北口で父・母と合流
日暮里・上宮病院にタクシーで到着
7時45分 二階へ上がる
到着と同時に祖母が手招きしていた
5分の遅れで最期は看取れず
じいちゃん 目から涙が流れているようだった 最期に泣いたのか
体から体液が出たのかもしれない
手を触る まだ暖かい 足はもう冷たい
目は薄めで閉じない 口には出血の後が見られた
頭髪は剃られ、体は記憶よりも一回り二回り小さくなっていた
誰もが動揺していた 祖母、目を赤くしている
小さくなった体とは対称的に、大きく膨れ上がった両手
赤くあざになった箇所も
7時51分 まだ若い担当医師が到着
3つの確認箇所を診断で、死亡を確認
最期まで持っていたノートを譲り受ける
遺体を洗う作業へ
兄、合流 足を確認 かかとがいように大きい
ベッドでの生活が長かったせいか、筋肉は確認できない
赤ん坊のようにひざを曲げ、〈 〉状にしていた
空腹を満たすため、小さなケーキをふたつ食べる
兄と簡単に会話
一階へ下り、5人でまずは落ち着く
父が葬儀の手はずを取るため慌ただしい
新宿のおじちゃんから連絡など
田舎は、ばあちゃんだけでは来れない
おじちゃんに一任し、連絡を済ませる
看護師が入れ歯を見つける 口には綿を入れたあと
もう間に合わないと判断 棺桶に入れることで合意
看護師がじいちゃん最後のメモをくれた
亡くなる何日か前に書いたものとのこと
謎の絵と英語、そして「小菅」「小菅薬局」
体は手・足・頭など末端から冷え始めたが、
21:31現在、まだ心臓付近は暖かみを残している
半目の状態が仏様のようだ
一点を見つけるようで、全体を見つめている
なにかを見つめるようで、なにも見つめていない
目はいくら閉じてみても閉じることはなかった
21:57 死亡診断書が出る
小菅正夫 老衰にて永眠 享年88
反復性誤嚥性肺炎
廃用症候群
後日談 父と兄の話
昨日、目は開いて覚醒していた
手を動かして、話をすれば握る感じ
一週間前、文ちゃん(兄の長男)の写真を見せて
「かわいいね」「あー」と返答
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祖父が亡くなる日まで側に置いていたフォルダー。日記やノート、ペンケースなどが収納されていた

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ペンケースにはたくさんの鉛筆と色鉛筆が入っていた。祖父は絵を描くのが大好きだった

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フォルダーには父1歳の写真がラミネートして収められていた。大きく「KOSUGA」の字

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祖父が最期まで持っていたクリアファイルに収納された写真アルバム。祖母を写した2枚

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写真・上は私が写した1枚。下は祖父による私と祖母

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写真・上が祖父、下が父

 

秋田の限界集落に赴き、「朽ちていく写真たち」を見てきた。

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■秋田の限界集落で開かれる、謎のアートイベント
「ハイ、着きましたよ!」——。早朝から電車、バス、飛行機、バス、バスといくつもの移動手段を駆使した挙げ句、いよいよ睡魔に襲われ始めたころ、ようやく目当ての村に着いた。
ここは上小阿仁村。秋田県のほぼ中央に位置する、山あいの村である。地元の縄文遺跡などから、古くは3500年前から人が居住し続けた地であることが判明している。そして徳川時代、藩の方針として「秋田杉」を育て始めたことから、その産地としても今なお有名だ。
ここを舞台に毎年開催されているアートイベント「KAMIKOANI PROJECT AKITA」をこの目で確かめたく、はるばるやってきたというわけ。いわゆる極度な高齢化が進む「限界集落」を舞台にしたアートイベントである。なんだかその意気込みもおもしろい。
なかでも、写真家・田附勝さんの展示『みえないところに私をしまう』を観たくてやってきた。展示としては珍しく、2013年から丸2年も展示され続けているんだけれど、今年でそれも終わりと聞いて。
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僕はこの展示のことを2013年に、当時勤めていたVICEで記事にまとめている
が、恥ずかしいことに、展示を観に来てはいなかった。当時、田附さんの話を電話ごしで聞くだけでもイマジネーションがぼこぼこと湧いてくるような、なにかヒントをくれる魅力に満ちあふれていることは確かだと思ったし、なによりも田附さんの写真はいつも、写真以外の大切なことを教えてくるから、きっとこの展示でもなにか気づきがあるんじゃないかって思った。
今回は、ようやく訪れられたこの展示について説明していこうと思うんだけれど、写真の中身、つまり田附さんがなにを描こうとしたのかについては、先述の記事を読んでもらえばいいと思うので、今回はどちらかというと、本展を実際にこの目で見て感じられたことを中心に書いていく。
その前に、このイベントの舞台となった上小阿仁村について、まずは知ってもらいたいことがいくつかある。それらを順に説明していこう。
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■わずか15人ばかりが暮らす八木沢集落

明治22年、市町村制施行により、現地に点在する9つもの村が統合したものを「上小阿仁村」と呼ぶことになった。このことからも分かるように、いわゆる「1ヵ所にまとまった家々の集合体」というよりは、「森のなかにポツポツと点在する集落」をまとめて上小阿仁村という。

実際、村の92.7%が山林原野なのだから、どちらかというと自然の存在感のほうが強いエリアだ。


まるでガガが履きそうなブーツのような形状をした上小阿仁村
 
2013年の秋田県総人口は105万人。対して65歳以上人口が33万人。これを高齢化率で表わすと31.6%。これは全国1位の割合となり、2040年には43.8%に達するとも予測される。つまり秋田県はぶっちぎりで全国1位の高齢化県なのである(内閣府発表「高齢化の状況」より抜粋)。
そのなかにあって、集落の現状は実に険しいものだ。「限界集落」という代名詞も持つ八木沢集落にいたっては、「人口:15 人 世帯数:8 世帯」っていう始末(2015年3月1日現在)。
えっ、15人ってなに!? ありえないっしょ! これが、初めて聞いたときの、僕の率直な感想。八木沢集落は、秋田県で最も人口が少なく、最も高齢化や過疎化、空洞化が進んでいるとも言われる。
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誰がどう見ても、村の終焉はそう遠くない。
それでも「地域おこし協力隊員」という名目で、都会出身の若者を受け入れて住まわせたり、今回のようなイベントを実現させるなことで、村おこしまでいかなくとも、そこに在る歴史や文化を次なる世代に継承したい。そうした思いは、今年のテーマ「ただ、ここに、在り続けたい。」からも伝わってくる。
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今年のイベントポスターを飾ったのは、上小阿仁村地域活性化応援隊の水原聡一郎さん

■田附さんは集落と向き合い、なにを写そうとしたのか
さあ、ここからが本題だ。田附さんは当初、このプロジェクトに参加するうえで、ひとつの決意をしている。

「もちろん村おこしの意味も含まれるんだけど、八木沢集落は今や限界集落。もう20人弱のお年寄りしか住んでないし、若い人が戻ってきて定住しない限り、村として変われる部分はそれほどない。だから俺は、この村が幸であれ不幸であれ、この現状をそのまま見せたいと思った」

田附勝インタビュー記事より

電話ごしにこの話を聞いたとき、僕は「いやあ、かっけえこと言うなあ!」と関心していたが、実際に現地を訪れてみると、そのことは身に浸みて分かったような気がした。
というのも、村人に話しかけて、訊いてみたんだ、このプロジェクトのことを。田附さんの展示のことを。そしたら、なんというか……なにも返ってこなかった。かえって困らせてしまうほど、まるで無関心という印象だった。
実際、そうなんだろう。まだ村が持続可能、あるいは発展可能なほどの規模なら、とも思う。しかし現実は15人なのだ。いまさら、なにが変わるというのだ。この集落はたしかに、消えかかっていた。そう考えると、田附さんの言葉の節々が重く感じられた。
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これが展示会場。トタンでできた小屋。
元々は耕具などをしまう物置だったらしい。上小阿仁村ではまだトタン作りの家々が風景として残っていて、カラフルな街並みがよく目に入ってくる。
展示タイトルは『みえないところに私をしまう』。なにやら意味深な響きだけれど、これについては前のインタビューで田附さんが答えてくれている。

「写真を撮らせてくれた人たちにはポラをあげたんだけど、おばあちゃんの1人が箱を持ってきてさ。なにが入ってるのかと思ったら、出てきたのは写真アルバム。そうやって写真を大事に保管していた。それを見て、普段は日の目を見ない人生が〝しまわれてる〟んだなって。それで俺も今回、自分が八木沢を訪れて見たこと感じたことを〝しまおう〟と思ってさ。それでこういうタイトルなワケ」

田附勝インタビュー記事より

 

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「小屋には入らないで下さい」って書いてあるのに筆者は入ってしまった。ゴメンナサイ

じつに素敵なストーリーだし、実際、小屋のなかを外から眺めるだけでも、なにやら見ちゃいけないものがなかに潜んでいるような気にも。いつも東京じゃ、腐るほど写真に囲まれているくせして、なぜかこの小屋では、写真が特異なものに見えてきて。

なにかこの村に起きている、何気ない「いま」が刻まれているというか。この「ざわざわ」した感覚に向き合ったのが、ほかでもない田附さんだったんだろう。だから僕も、自分が感じたことを素直に受け止めることにした。

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小屋に入ってすぐ目に入る巨大な老人の顔写真

■いよいよ、小屋の中に入ってみる。
中に入ってみる。強烈に出迎えてくれたのは、老人の顔アップ。強烈なインパクトだ。
おもしろいなと思ったのは、この老人の顔写真が2年もの経年劣化によって、シワだらけになっていたこと。おじいさんの皺と相まってというか、写真のほうがおじいさんに歩み寄ろうとしているようにも見えて、なんだか「ああ、写真も生きてるんだ」と思った。
そう、この展示において写真たちは、呼吸をし、生きているんだよね。もしかすると、額にしまわれ、丁重にあつかわれることのほうがむしろ、写真を殺してるんじゃないかって、そう思えてしまうほどに。
そのほかにも、壁近くの写真は雨や雪、湿気などによって消えかかっていた。このことも、田附さんは2年前に予測していた。

「誰かが見張ってるワケじゃないし、小屋も隙間だらけ。雨が降れば中の写真も濡れちゃうと思うんだよ。でも、もしかしたらこの場合はそれでいいんじゃないか?と思ったんだ。村も人も、トタンも写真も、みな朽ちていくものなんだってさ。それも含めて写真っていうかさ。そういう展示になればいいのかなって、今回は思ったんだよね」

田附勝インタビュー記事より

 

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朽ち果てた写真たちも、見方を変えれば、それが生きていたことを証明するかのよう

朽ちていく写真。そんなの、考えたこともなかった。
いま、写真はかつてないほど、丁寧に扱われるようになった。ある写真には札束が飛び舞う。たかが、紙なのに。大事なのは、そこに映り込んだものであって、その紙が大切なわけではないのに。価値を認められた写真は額に収められ、いつまでも永遠に死んだ時を、果てることなく継続させる。
でもこの写真家は、紙切れに「朽ちてもいいんだよ」と声をかけ、写真は朽ちることを許されたことから、朽ちかけるまでの時を生きることができた。僕たちはさんざん、写真から「時」は抜け落ちるものだと信じ込んでいたのに。
もしかするとこの集落は、いつの日にか消え去るのかもしれない。 でもそれを「死」と捉えるのでなく、「朽ちる」と捉えるとどうだろう。木は虫や動物によって朽ち、倒れたのちに菌類によって分解され、土となる。そこから新たな生命が誕生する。偉大な自然が教えてくれることは、終焉が白黒ハッキリしたものでないことと同時に、その先に新たなものが待ち構えるということ。
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■写真のなかに「しまう」ということ
最初に、村人は無関心だったと書いたけれど、それが如実に感じられたのは、田附さんの写真で村人たちを撮ったものからだった。なにか突き放したような、冷たく、部外者を見るような目つき。頭に黄色いタオルを巻いた男性からはいくぶんの気持ちが感じられるけれど。
これは勝手な想像だけれど、もしかすると田附さんはこの村に歓迎されていなかったのかもしれない。たった1週間っていう、とても短かな時間のなかで完成させてくれ、っていう依頼でもあったのだから、いつもなら一プロジェクトに最低でも1年はかける田附さんのことだから、なおのこと。あるいは「静かにさせてほしい」という気持ちがにじみ出ているのかもしれない。なにせこの村は、もう先が見えているのだから。それは先述した村人の反応からも見てとれることだ。
それでも集落と向き合ったとき、見えてきたものを素直に吐き出したのが、『みえないところに私をしまう』だったのかもしれない。田附さんはこのときの撮影のことはあまり多くを語らなかった。それはきっと、田附さん自身も現地で「私をしまう」ことで、この作品を完結させたからだろう。
田附さん曰く、本展は今年で最後となり、以降は公開する予定はないとのこと。その言葉の意味が、現地を訪れてみて、少し分かったような気がする。
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■村おこしとしてのアートイベントの課題
このイベントに訪れる人々は、地元・秋田県からが大半だった。
あるおばさんに話しかけられたが、このイベントも今年で最後と聞いてやってきたという。秋田市から無料の送迎バスを運転してくれたスタッフさん曰く、今後はイベント名を変え、また違うカタチでの継続を考えているとのこと。村人たちの会話は方言がひどく、もはや異国語のようだった。
そのほか、村に点在する作品も回遊しながら鑑賞したが、村を部外者の目線から見て感じられることや、非現実的な彫刻が目立ち、なぜこの舞台でその作品を見せる必要があるのか?という疑問に答えるような作品はあまり見当たらない。イベントそのものも、どこに向かえば良いのか、まだ方向性が定まっていないようにも見受けられた。
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八木沢集落に点在する〝アート〟作品。う〜〜ん……

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う〜〜〜〜〜ん…………

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やりたいことはなんとなく伝わる

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これに至っては、完成していると言えるのだろうか………分からない

アートで観光客を、という話も近頃よく聞く。秋田県のように高齢化が顕著な場所においてはなおのこと。
アートの力で明るく楽しく、素晴らしい未来をえがくような道すじにしたい。そんな気持ちも分からなくもない。でも、現実を描かざるをえない写真という表現において、田附さんがこの集落で見つめようとしたこともまた伝えていくべき現実であり、見つめなければならない事実だ。
もうじきこのイベントも終わりを迎える。ぜひ行ってみて、とまでお勧めすることはさすがに憚られるから、せめて少しでも現地の空気が感じられるよう、現地レポートというカタチでここに残し、この辺りで筆を置くことにしよう。
協賛、10-3
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www.tomokosuga.com/articles/masaru-tatsuki-mienai/
一万年の時を超えて | 田附勝「魚人」レビュー
http://imaonline.jp/pickup/review/20150204/
東北の森で野ジカを追い、その暗がりに太古日本のクオリアを見出す
http://www.tomokosuga.com/articles/masaru-tatsuki-kuragari/
田附勝、デコトラの煌びやかなネオンに男たちの飽くなき夢と意地を見る。
http://www.tomokosuga.com/articles/tatsuki-decotora/

深瀬昌久『救いようのないエゴイスト』 Diesel Art Gallery, 2015年

flyer日本写真を代表する写真家の一人、故・深瀬昌久の展覧会『救いようのないエゴイスト』のプロデュース及びキュレーションをトモ・コスガが担いました(2015年5月29日より 8月14日まで開催)。

150528_00325 氏の没後、初となる回顧展である本展は多くの媒体に掲載され(雑誌20誌/ウェブ誌62誌)、計5,500名の来場者が訪れました。なかでも「日本カメラ」誌には3号連続で掲載され、写真評論家・飯沢耕太郎氏の展評連載では本展における私の取り組みをご紹介頂きました。また同誌における12月号では『7人の卓越した目による選出 写真集&写真展 2015年 ベスト5を選ぶ』において、飯沢耕太郎氏と調文明氏の2名による「写真展ベスト5」に本展が選出されました。

Diesel Art Galleyの公式ページでも詳細をご覧いただけます。
http://www.diesel.co.jp/art/masahisa_fukase/

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